原爆の記憶

 

グビロヶ丘

 
 医学部正門を通ると、真正面の一段高い石垣の上に、鉄筋2階連の建物(学生控室)がある。この建物の裏は、雑木林の続く小高い丘である。強い日差しを遮って薄暗くなった林の中を這うように、細い、くねった舗道が通っている。この坂道を3分ほど登ると、平担な丘の上に出る,,,(本文へ)
 
グビロヶ丘原爆慰霊碑について
グビロヶ丘慰霊碑周辺の清掃活動
 
 

薬専防空壕跡

 
 附属薬学専門部の歴史は古い。明治23年(1890)6月、第五高等中学校医学部に附設された薬学科に始まり、同27年、第五高等学校医学部薬学科、同34年、長崎医学専門学校薬学科を経て、大正12年(1923)4月、長崎医科大学附属薬学専門部と校名を改めてきた。 基礎キャンパスの北側に木造二階建校舎、実習室、薬草園(1,000坪)、温室などがあり、玄関の入口まで桜並木のトンネルが続いていた,,, (本文へ)
 
 
 

忘れ得ぬ日

 
 薬学部の大防空壕はすでに半年がかりで、粒々として築かれていたのである。校庭に隣接した射撃場の溝から、さらに東南の丘をめがけてえぐり抜かれ、当時、奥行10m、高さ1.5mの円形壕は、入口を二つにして、丘の中で会合する相当に頑強なものになっていた。そして講義終了後、昼休み、研究の余閑に、だれかしらスコツプ、くわ、つるはしをにぎっては、岩にいどんでいた。9日は、ちょうど11時を針が指したころ、清木先生(教授)は突然、「あの音!! 静かに」と叫んだ,,, (本文へ)
 
 
 

追憶

 
 昭和19年4月から,22年3月までは,日本の敗戦をむかえて,国家存亡が問われた重大な時期であった。
 特に,20年8月9日,原爆により母校は壊滅し,教職員学生46名が校内で爆死あるいは,負傷後死亡し,長崎医科大学と共に,薬学100年の歴史の中で,最も悲惨な頁を綴ったのである。このことは,我々が終生忘れ得ぬことであると同時に,後世に伝えて永く平和の礎とすべきものである,,,(本文へ)
 

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