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訃 報

 広島国際大学 薬学部長の中牟田 弘道 先生が平成23年7月7日にお亡くなりになられたとの知らせを受けました(享年56)。中牟田先生は昭和53年卒業の長薬野球部 OB です。ここに哀悼の意を表し、謹んでお知らせいたします。
 なお、告別式等は下記のとおり執り行われます。
 中牟田先生のご冥福をお祈りいたします。

通 夜:平成23年7月8日(金) 19時から
告別式:平成23年7月9日(土) 13時から
喪 主: 中牟田 剛 様(故人のご長男)
場 所:「シティ・ホール呉中央」(通夜・葬儀とも)
       広島県呉市宝町2ー70
 電話:0823ー20ー1000

(情報提供:広島国際大学瀧口先生(院平5卒))(2011.07.07)


 下に中牟田先生の恩師であり、野球部とも深いつながりのある小井田雅雄先生(摂南大学名誉教授、元長崎大学薬学部助教授)による追悼文と中牟田先生の同期生である木原哲郎氏の「訃報に接して」を載せていますので是非お読みください。同窓会報第51号(平成23年12月発行予定)に掲載予定の文です。


追悼文

「広島国際大学薬学部長:中牟田 弘道君と妻:由里子さん」の墓前に捧ぐ

小井田 雅雄(摂南大学名誉教授)

 中牟田弘道君に初めて出会ったのは、1976年、小生が二度目の外国出張先であるイリノイ大から長崎に帰学し、故渡辺三明君率いる長薬準硬式野球部の練習を見に、グランドに行った時と記憶しています。印象的だったのは、当時の野球部員の中でも背が高く、顔の縦軸が顎のせいか少し長めで、スリムな筋肉質の体型でした(実際、摂南大には「長顎」に注目してアゴニストと呼ぶ不埒者がおりました)。訊けば、陸士出身の父を持つ佐賀県人で、出身のバスケ有名高校ではバスケ部所属でしたが、故障もあり、長薬では野球部に入部とのことでした。当時、長薬野球部には笹田豊君、高田充隆君など、優れた運動能力の部員が勢揃いし、強力なチームを作っていました。帰学後も野球部の練習やコンパに厚かましく参加するうちに、中牟田君のお眼鏡に叶ったのか、卒研先として、金戸教授の薬理学研究室を選択されたのが、本格的な付き合いの始まりでした。長薬大学院修士課程院生・研究生・助手時代から、摂南大助教授就任、優美な由里子夫人との結婚、長男:剛君と長女:香さんの誕生、新設の広国大教授に転任、そして学部長就任に至る34年間、特に由里子さんに親しくして頂いた家内にとって、由里子夫人は親類縁者よりも近い存在であったようです。それだけに、この一年間に連続した夫妻の相次ぐ訃報は、残された我々二人の人生にとって心情的に極めて重いものとなっています。
中牟田君は、研究面では、長崎大から摂南大、そして広島国際大において、一貫して、「骨粗鬆症動物実験モデルの作成と解析、およびその治療薬の開発」というべき研究を進めて参りました。

 課題別に列挙しますと、下記の三種類に分類することが出来ます。

1. 魚類カルシトニンの骨粗鬆症予防作用と鎮痛作用の解析と評価、
2. ヒト副甲状腺ホルモン(hPTH)の骨形成促進作用の解析と評価、
3. 新規エストロゲン受容体モジュレーターの開発研究、

 3. は、武庫川薬大・大石義孝教授の研究室と共同開発した新規化合物で、現在、横浜薬大の出雲信夫研究班と共に、エストロゲン受容体モジュレーター作用の解析と評価の最終段階に入っており、数年内に基礎研究を終え、臨床研究に進む予定で、残された者が連携して全力で開発に当たり、その結果を墓前に報告することを目指しております。

 教育面では、学部長として「薬剤師教育」の完成度を高めることに全力を捧げ、開学第一回卒業生の薬剤師国家試験の合格率で、よくぞ「全国一位」を達成されました。これに要したエネルギーは全教職員が一体となった大変なものだったことは容易に想像でき、最終責任者として本人のみぞ知る「厳しい戦い」であったかもしれませんが、その戦跡は広国薬の教職員にとって「最高の遺産」になっているものと評価しています。

 今年、終期高齢者になった小生にも、冥界入りの時期が近づいています。その時には、是非、「電線に、雀が三羽、止まってた。」で始まる何人も真似のできない「電線音頭」で歓迎会を御願いします。勿論、奥様と共にです。


追悼文

同期友人・中牟田君の訃報に接して

木原 哲郎(昭和53年卒)

 学生時代からおよそ“病気”とは縁のなさそうなvitality溢れる人がこれほど早くに鬼籍に入っていかれるとはよもや想像つかないことでした。同期友人 中牟田弘道君の早すぎる死は私のみならず、彼からの薫陶や交誼を受けた人たちに深い悲しみを覆ってしまったと思います。何故これほどまでに早く、と大抵の人たちが思うところかも知れませんが、この“予想外”の運命こそがこの世における実態なのでしょう。大変辛く悲しいことであり、中牟田君のご冥福を衷心よりお祈りします。加えてまだ社会人に達していない彼の二人のお子さんにとって本年(2011年)、続けざまにご両親を失われる結果となり、彼らの慟哭は想像を絶するものであったと心が痛みます。

 告別式に東京より急遽参列しましたが、そこで中牟田君の恩師、小井田雅夫先生(摂南大学名誉教授)が弔辞で故人の生前のペプチドを基本とした創薬研究に関する素晴らしい業績のみならず、大学での教育、地域薬剤師会との交流など幅広い生前の活躍ぶりが紹介されました。また前広島国際大学薬学部長の富士先生からは2008年の第93回薬剤師国家試験合格率で同大学が全国一位となりそのときの国家試験対策の責任者をしていた故人を高く評価される旨の紹介がありました。小井田先生は、故人の結婚媒酌人も務められたこともあり、上記のように短期に両親を失った子供たちに対して今後も温かくご支援していただくよう列席者に懇願されていました。無論、私も彼と同世代の親として痛み入るところがあるので今後もできる限り応援していきたいと思います。

 中牟田君の生前中の業績は誠に輝かしいものがあったと思います。長崎大薬物学教室時から小井田先生に仕え、小井田先生の摂南大学異動とともに彼も同大に異動、カナダ留学、助教授を経て、広島国際大学に就任されました。病魔に襲われながらも薬学部長の要職を凛と務められていたと伺っています。地域密着型の学内外の薬学部の要として、さらなる大学の発展を目指しておられたものと推察されますが、ここまでの大きな活躍ができたのは彼の大学時代からの卓越した研究能力のみならず明朗活発な社交性、さらに同期のみならず先輩、後輩からの幅広い信望があったからこその結果と思います。本当にこのような貴重な人物を早期に失い、同期として悲しみのやり場がありません。彼は上記の仕事やその他もっと色々な事をしたいと考えていただろうと推察しますが、彼しかできないことが多々あったものと思われますので、せめて彼の「心意気」を察してこれを私他残された仲間で向後踏襲していきたいと思います。

 当時薬学科長(現薬学部長)の宇根先生の式弔辞で「中牟田先生はロマンチストですね。旅立つ日が7月7日とは、もう奥さんに会われましたか。。。」・・・私もとうとう熱いものを頬に濡らしてしまいました。出棺のときに最後の穏やかな御顔を拝し、「ゆっくり休んでね。じゃ、またね、、」とつぶやくのが精一杯でした。

 翌日、広島の実家から帰京しましたが、新幹線の車窓よりふと西方の広島方面を眺めると金色の眩く美しい夕日が広がっており、まるで生前中、いつも学生時代から別れの挨拶で言っていた「じゃあねー!」の軽いタッチの彼の声が空高くから返答しているように思われました。

 中牟田君、これまで色々とありがとう。安らかに奥様と共に眠ってください。
 そしてお子様たちを見守って下さい。          合掌