同期友人・中牟田君の訃報に接して
木原 哲郎(昭和53年卒)
学生時代からおよそ“病気”とは縁のなさそうなvitality溢れる人がこれほど早くに鬼籍に入っていかれるとはよもや想像つかないことでした。同期友人 中牟田弘道君の早すぎる死は私のみならず、彼からの薫陶や交誼を受けた人たちに深い悲しみを覆ってしまったと思います。何故これほどまでに早く、と大抵の人たちが思うところかも知れませんが、この“予想外”の運命こそがこの世における実態なのでしょう。大変辛く悲しいことであり、中牟田君のご冥福を衷心よりお祈りします。加えてまだ社会人に達していない彼の二人のお子さんにとって本年(2011年)、続けざまにご両親を失われる結果となり、彼らの慟哭は想像を絶するものであったと心が痛みます。
告別式に東京より急遽参列しましたが、そこで中牟田君の恩師、小井田雅夫先生(摂南大学名誉教授)が弔辞で故人の生前のペプチドを基本とした創薬研究に関する素晴らしい業績のみならず、大学での教育、地域薬剤師会との交流など幅広い生前の活躍ぶりが紹介されました。また前広島国際大学薬学部長の富士先生からは2008年の第93回薬剤師国家試験合格率で同大学が全国一位となりそのときの国家試験対策の責任者をしていた故人を高く評価される旨の紹介がありました。小井田先生は、故人の結婚媒酌人も務められたこともあり、上記のように短期に両親を失った子供たちに対して今後も温かくご支援していただくよう列席者に懇願されていました。無論、私も彼と同世代の親として痛み入るところがあるので今後もできる限り応援していきたいと思います。
中牟田君の生前中の業績は誠に輝かしいものがあったと思います。長崎大薬物学教室時から小井田先生に仕え、小井田先生の摂南大学異動とともに彼も同大に異動、カナダ留学、助教授を経て、広島国際大学に就任されました。病魔に襲われながらも薬学部長の要職を凛と務められていたと伺っています。地域密着型の学内外の薬学部の要として、さらなる大学の発展を目指しておられたものと推察されますが、ここまでの大きな活躍ができたのは彼の大学時代からの卓越した研究能力のみならず明朗活発な社交性、さらに同期のみならず先輩、後輩からの幅広い信望があったからこその結果と思います。本当にこのような貴重な人物を早期に失い、同期として悲しみのやり場がありません。彼は上記の仕事やその他もっと色々な事をしたいと考えていただろうと推察しますが、彼しかできないことが多々あったものと思われますので、せめて彼の「心意気」を察してこれを私他残された仲間で向後踏襲していきたいと思います。
当時薬学科長(現薬学部長)の宇根先生の式弔辞で「中牟田先生はロマンチストですね。旅立つ日が7月7日とは、もう奥さんに会われましたか。。。」・・・私もとうとう熱いものを頬に濡らしてしまいました。出棺のときに最後の穏やかな御顔を拝し、「ゆっくり休んでね。じゃ、またね、、」とつぶやくのが精一杯でした。
翌日、広島の実家から帰京しましたが、新幹線の車窓よりふと西方の広島方面を眺めると金色の眩く美しい夕日が広がっており、まるで生前中、いつも学生時代から別れの挨拶で言っていた「じゃあねー!」の軽いタッチの彼の声が空高くから返答しているように思われました。
中牟田君、これまで色々とありがとう。安らかに奥様と共に眠ってください。
そしてお子様たちを見守って下さい。 合掌
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