前へ

柏葉健児 目次 背番号10

次へ

まだ早すぎる

 


昭和25 年卒業 古川 淳

 「古川さん、打ってみる?」 40年程前の昭和町校舎の広いグランド。グローブのなかのポールを弄びながら生化学教室の市川助手はニコヤカナ顔をして言った。
「よ−し、目が覚めるようなヒットを」と細腕をさすった。当時、私は薬化学教室の助手であり、はやりの薬学部ソフトボールチームの名?レフトであった。
 そしてプレイ、速い内角球にのけぞった。曲がるわ、落ちるわ、ホップするやら、10 球をすべて空振りしてしまった。
 その後、市川先生は、熊本大学ついで福山大学へ転任され、研究、教育に専念された。その間にはアメリカ、ウィスコンシン大学臨床癌センターの客員教授として発癌機構について研究された。主な研究は、植物に広く分布しているクエルセチンのようなフラボノイド類の突然変異性をもつ化合物の化学構造と発癌性の関連性についてと聞いていた。
 昭和60年、福山大学薬学部教授だった市川先生は医学部附属病院率剤部長に就任された。医学部の期待は勿論のこと、医療薬学を標榜し、大学院を充実したい薬学部にとっても得難い協力者であり、指導者であった。薬学の合成系の分野を専攻された市川先生にとって薬剤部長職につくことは相当な決心が必要だったろうし、その職務を遂行することは大変なご苦労があったと想橡された。しかし、持ち前のバイタリティーを駆使し、広い視野をもって薬剤部の運営に当たり、また医学部教授として医学部さらには大学の運営に関与されていた。一方では、病院薬剤師会そして県薬剤師会の魅力ある指導者として活躍されていたのは衆知のことである。
 昨年、市川先生は日本病院薬剤師会賞を受賞された。そのお祝いの席で私は先生のご活躍に心からの祝意を述べた。
 それから、日ならずして先生の入院を知らされた。闘病も一時は順調に回復の方向だと聞いて安心していた。
1月8日、告別式で弔辞を捧げられた全田浩日病薬会長は、悲痛な面持ちで
 『市川先生!あまりにも早いよ』
 と絶句された。この言葉は、私のみならず参会した多くの人々の心に深く残されていることだろう。

平成12年9月

前へ

このページの初めへ

次へ