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柏葉健児 目次 背番号10

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市川君、安らかに眠りたまえ

 


昭和33 年卒業 富田 達也

今、君との若いときを思い出しています。

 高血圧、糖尿病、動脈硬化の進展と典型的な成人病を持つ我が身が、まさか、あの元気者、市川君の追悼文を書くことになるとは、夢想だにしなかったことである。

 彼との接点は、やはり野球である。昭和33年卒の我が同級生には市川、角田、西脇という高校時代に甲子園を目指して、本格的に野球に取り組んだ名手が居た。私は草野球ながら、中学、高校と6年間、夢中になって野球を楽しんだ経験があり、彼等3人の勧誘で野球部に入り以来3年間野球を中心にしたつき合いががはじまった。

写真  2年生の夏、初の対外試合、熊薬との定期戦でのこと。オール長崎大のメンバーでもあった彼等3人は当然最初から、レギュラーで中心選手である。私は実力未知数でベンチに居た。試合後半チャンス到来、代打に起用された私の打球は右中間をライナーで破る2累打となり、2塁走者市川君を生還させることになった。以後、メンバーが卆葉まで定着した。1番レフト西脇、3塁ショート市川、4番ピッチャー角田、6番セカンド富田、彼等3人が主力であった3年間、ほとんど敗けた記憶がない。まず投手力が万全であったこと。先発、角田投手は、豪速球が売りもので、3振の山を築いたが、疲れのでる終盤では四球を連発するくせがあった。そこで、最終回は、市川投手の登場となりよくコントロールされた大きなカーブとキレのよい速球で試合をしめくくったものである。
 守備力も、堅実なレフト西脇、華麗なフットワークで広い守備範囲のショート市川の存在があり、まずまずだったと思う。一度だけだが、ショート市川の早い捕球からトスで、6,4,3の併殺を完成した記憶がある。打つ方でも、彼等3人が抜けた存在であり、私の打席では、西脇、市川、角田の中1人か2人は、累上に居たことになるが、熊薬との初打席以外殆どヒットを打った記憶がないのは残念である。

 野球以外に市川君と私との間には2人だけの接点がある。熊本に2回、博多に1回対抗試合の度、遠征したが、、2人で、こっそり宿舎を抜け出し、ストリプトショウや赤線で遊んだ。夜半、もしくは、朝早く宿舎に戻り、何食わぬ顔で沈黙を守ったのは、2人の暗黙の了解事項であった。
 最後に彼に会ったのは昨年春の甫陵会だったと思う。 酒をくみかわす喧噪の中で、彼と2人きりの瞬間があった。
「俺も、早く、トミさんのように気楽になりたいヨ」
 ふともらした彼の言葉は、きっと本音だったと思う。 因みに私は60才で定年を迎え、気楽な晩年をエンジョイしている。 忙しく、走りに走った追去の40年にくらべると、黄金の日々である。 せめて退官後の数年、彼にも気楽な日々を送らせてやりたかった。
      市川君よ、安らかに眠りたまえ
         私から送る言葉はこれだけである。

               2000年9月11日   富田 達也

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