長薬野球部OB会、長薬同窓会にとってメモリアル・イヤーは大変な幕明けとなりました。1月6日、市川正孝先生の訃報に続いて、2月26日、渡辺三明先生の急逝の報が届きました。両先生はOB会、長薬同窓会の中心であり、特に長薬同窓会は会長、副会長を失い両手をもぎ取られた状態になってしまいました。幸い各々の協力の下、順調に両会とも運営されていることに、2人とも一安心でしょう。両先生の想い出は尽きませんが、少し記させていただきます。
市川正孝先生は高校、大学と私の2年先輩で、薬学部では生化学教室で教官と悪餓鬼学生として指導を受けたのですが、先生と言うよりは年の差も少なく“美味しいお酒を振舞ってくれる兄貴”という感じでした。元々私が2年に進学した時、野球部の欠員補充で「熊本へ酒を飲みに連れて行ってあげるから野球部に入りなさい」と誘われて始まったお付き合いでしたから、市川先生にお酒をご馳走になるのは当然のこと、市川先生の給料日には唯々先生の帰りを待つというのが私達(悪餓鬼酒飲み4年生は5人いたのです)の常でした。市川先生にとって迷惑な悪餓鬼だったと思いますが、そんなことは全く意に介さない、という本当に良い兄貴でした。社会に出てからもお会いした席の殆どに酒があり、楽しい有意義な酒をご馳走になりました。
想えば、長大病院院外処方箋発行の切っ掛けも酒の席でした。本年も11月大分県別府市で第64会九州山口薬学大会が開催されますが、前回平成3年別府市での九山大会の折り、別府の寂れたスタンドバーで市川先生を囲んで長崎市薬剤師会の当時は若い血気盛んな3人の薬剤師との酒席での事でした。当時の学会のメインテーマは“医薬分業推進”でしたが、私達は酔うほどに元気に、と言うより横着になり、市川先生に「長大も早く院外処方箋発行を」と迫ったのです。最初はニコニコ笑って受け答えをしていた市川先生も、遂に「お前等の様なボンクラ頭ではないのだから俺はちゃんと考えているのだ!」と怒鳴られ驚きました。既に先生は長崎市全域の薬局を対象にした面分業の設計を立てておられたのです。平成3年11月21日、「話があるから病院まで出て来なさい」と呼び出され教授室へ行くと「12月から小児の専門外来の院外処方箋を発行するので長崎市薬剤師会で応需体制をしっかりやりなさい」との命を受けました。当時は複雑な広域病院の処方箋への対応は殆どの薬局が出来ていなかったので不安でしたが、別府でのこともあり断わる訳にはいきません。其処で原田均先生に相談し、先ず小児科の処方についての講習会をはじめ、調剤講習会を開催して備えました。12月17日から長大病院の院外処方箋発行を実施し、次いで平成4年2月から全国に先駆けて全面院外処方箋発行へと移行し今日に至っているのです。
長大病院の院外処方箋発行は分業を大きく前進させたばかりでなく、各薬局間の相互理解、病院薬剤師と開局薬剤師との病薬連携、開業医、患者からの評価、勉学意欲の高揚等々、薬剤師、薬剤師会に対しての市川先生の功績は計り知れないものがあります。
渡辺三明先生とは野球部OB会でのお付き合いが始まり、以後良く研究室へも伺いました。無邪気そのもの、そんな中に気配りの細やかな、というのが私の印象です。好んで“世話好き”と言われるために人の世話をした訳ではなかったでしょうが本当に私もお世話になりました。思えば人に任せず何でも一人で背負い込む世話好きな性格が荷重な仕事量となり残念な結果になってしまったのでは、と悔やまれます。
いろいろとお世話になりましたが、中でも佳子先生を薬剤師会へ出して頂いたことには今でも感謝しています。昭和45年の事です。当時の長崎市薬剤師会会長、宮崎長二先生から、情報センターを創るから人を探すように、との命を受けました。その頃は唯一、九州大学薬学部に情報センターがあり、早速見学に行きました。今後大変重要な仕事になっていくだろうとは解ったのですが、さてこの仕事を請負ってくれる優秀な才能を持った薬剤師で貧乏な薬剤師会へ来てくれる人が居るのかと考えていると、頭にヒラメキました。カナダから帰国した三明先生の奥様です。薬学部の三明先生の所へ行き相談したところ、佳子先生に引き受けて頂けることになりました。形の無いところから苦労を重ね、今では県薬剤師会の中枢となった“医薬品情報センター”は佳子先生のご尽力と三明先生のご理解のお蔭と感謝しています。
大半の方が三明先生を“サンメイ先生”と呼んでいたと思いますが、私もずっと“サンメイ先生”と呼ばせて頂きました。それに呼応して、と言う訳ではないのでしょうが、三明先生は私のことを“タカギコウさん”と呼んでいました。遂に最後まで“ヤスシ”とは呼んで頂けませんでした。
二人して今日もヘネシーを酌み交わしていることと思います。 献杯!
|