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柏葉健児 目次 背番号10

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市川先輩との出会い(あの時は痛かったゼ。市川さん)

 

(元遊撃手・三塁手)
昭和35 年卒業 大塚 保雄

 市川教授いや市川先生(やっぱり44年タイムスリップして)市川さんと呼ばせて下さい。野球を通じて市川さんを知ったのは、私が教養学部から学部に進んだ昭和31年の春だった。私にとっては、ショッキングでもあり また痛い思い出でもある。中原氏、北島氏と共に野球部に入部し、午後練に参加した初日の事であった。『お前どこが守れるや?』『内野なら どこでも』『ならショートに入れ』のやりとりがあって、私はショートを守り、シートバッティングが始まった。
 私の野球歴?小学校;ピッチャー、中学校;ショート それだけ。それも福岡学芸大学(現 福岡教育大)付属小・付属中という弱小校である。高校は小倉高校一当時の甲子園常連校−だったが、野球部には入れなかった。しかし大学受験に失敗してみると 時間だけは十分にあり、天気の良い土・日曜は殆ど草野球に明け暮れた。当時ゲーセンは勿論ボーリングも未だなかった。しかし野球は盛んで北九州でも門司鉄道管理局、通称 門鉄や八幡製鉄などの実業団が全国レベルであった。遊びは大人も子供も 野球と決まっていた。サッカーなど、部活で持つ中学は北九州でたった2校しかなかった時代である。高校野球くずれや会社の野球同好会の大人に交じって、結構強かった地元青年団のチームに属し、今では考えられないがトラックの荷台に乗って移動していた記憶がある。それだけに、大向こうを意識した派手なプレーや、勝つための小細工、トリックプレーの得意なチームだった。
 シートバッティングが始まったが、初めて手にしたトップボール・準硬式ボールにと惑ってポロポロしていたら、打ち損なったファールフライがフラフラとレフト線にまい上がた。瞬間 これはサードは捕れない。ましてレフトの西脇さんは絶対追いつけまい。ヨッシャ ここで巧いところを見せてやれ と『もらった。任せ 任せ』と怒鳴って走った。ここは得意なコース、まともに捕っては面白くも何ともない とボールの落下点を通りすぎてヒョイとグラブを回して背中で捕って見せた。何時もであれば ここで『ウォー』の感嘆詞と拍手がくるところである。ところが その日は違った。『ウォー』の前にガーンと一発殴られてしまった。殴ったのが市川三塁手だった。『オオ サードここまで来たかいい足してるナ。落としたわけじゃないのに何故?。まして試合じゃなく練習じゃない』ムッとした顔をしていただろう私に『そんなスタンドプレーするな!。まともに捕れ!』と怒鳴った。 びっくりした。
 知らなかったのは、私だけだったらしい。市川三塁手はキャピキャピの高校球児だったのだ。『足速いじゃん』と感心するのもおこがましい事なのだ。まじめな高校野球は別格だとの認識は私にもあった。長崎東の3年の夏九州地区代表決定戦で市川さんのエラーでサヨナラ負ケしたことはあとで知った。
(柏葉 健児・背番号−9−(1986年)p5 「青春、野球そして長崎」市川教授の特別寄稿に詳しい)

写真  真摯な姿勢は野球だけではなかった、学問においても奥義を究め、熊本大学、福山大学ウイスコンシン大学を経て昭和60年長崎大学医学部教授・付属病院薬剤部長に就任されたことは本学の誇りであり、また、共に白球を迫ったチームメートひいては薬学部野球部の希望の星でもあった。
 公私共に忙しい市川教授とゆっくり話しをしたのは まだ私が北九州市立八幡病院薬局長の頃 北九州市も院外処方箋発行の機運があり、当時既に院外処方発行に踏み切っていた長崎大学付属病院の状況を伺いに行った折り、市川教授ご夫妻と愚妻で飲茶を食べながら、熊本時代の話やヨーロッパやウイスコンシン当時の話など聞かせていただいた。気さくな奥様も『ね−お父さん ね−お父さん』と市川教授に話されて非常に楽しい時を過ごさせて頂き、愚妻も一挙に奥様のファンになってしまった。市川教授も照れ臭かったのだろう、やけにメガネをふきふき笑っておられたのが目に浮かぶ。前夜高木 康氏(35年卒)と3人で深更まで長崎の夜を満喫したので、酒の弱い私はアプアプの状態なのに 次々と出される料理をたいらげる市川教授の健啖ぶりに驚いた博多で開かれるメーカーの研究会や病院薬剤師の研修会などで、座長や講演をされる市川教授に何度となくお会いする機会があったが、私を見つけて『オイ元気にしとッヤ奥さんも元気?』と声をかけて下さった、教授 市川さん今はなし。

写真  『あのときは痛かったゼ。市川さん。でも有り難うございました。』合掌。

2000年9月22日


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