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市川・渡辺両先生を偲んで

 


昭和39 年卒業 山本 浩三

 お二人の訃報に接し、世の無常を強く感じています。長崎を離れてから毎年恒例のOB対現役の親睦試合に案内を頂きながら一度も応えていなくて、長崎のことも忘れかけている自分に、野球部同窓会から突然の原稿依頼を受けて戸惑っています。わずかな記憶を頼りに以下の拙文をお送りすることでご容赦願います。
 市川先生は6年先輩で、花の33年組の名選手とお聞きしていますが、直接お話する機会はなかったように思います。私が3年生の頃だったと記憶していますが、グランドで練習中にバッティング投手をしていた時、当時薬剤学教室におられた先生が見ておられて、もう少し腕が上から出て身体が開かなかったらもっと良い球が投げられる、と側の人に話しておられるのが聞こえてきたことを覚えています。身体が早く開く悪い癖はその後も直りませんでした。その後先生は熊本へ行かれ、お目にかかることはありませんでした。先生の思い出は、野球よりも医薬分業のことで強くあります。長崎大学病院の薬剤部長に就任された頃からしばしば雑誌で、医薬分業の魁として紹介されているのを目にしました。今でこそ分業はかなり進んで来ましたが、いち早く分業を推進されたすばらしい先輩がおられることを心強く思ったものです。私も現在高槻市内の薬局で調剤と服薬指導の仕事を少し手伝っていて、医薬分業と言えば市川先生のことがすぐ思い浮かびます。
 渡辺三明君とは数年間一緒にプレイしました。私が3年先輩に当たりますが、研究生と大学院との3年間、私はコーチ役のような形で彼らの練習にも出来るだけ参加しました。当時のチームには高宮君という剛球投手がいて、私はよく彼の球を受けました。今も時々左手親指の付け根が痛むのは彼の荒れ球を捕球したせいです。その彼も早世し残念でなりません。三明君は確か内野を守っていてチームのまとめ役でした。後輩にも良く声をかけ適切なアドバイスをしていました。彼が卒業した年、私も田辺製薬の大阪研究所へ帰り、彼は大学に残りました。その後一度会っただけで年月が経過しました。平成7年の秋、小井田先生と中牟田先生のおられる摂南大学で関西在住の野球部OBが集まって親睦試合をしようということになり、三明君がはるばる長崎から来るというので、彼を慕って後輩が多数集まりました。彼がずっと長薬野球部を支えてきたことを、そのことから知りました。残念ながら私は野球の試合には参加出来ず、夜の懇親会にだけ出席したのですが、その日の試合は三明君が好投し、そのことを彼がうれしそうに話してくれたのでした。ああ、彼も野球少年そのままだなと思いました。その後も毎年この会は続いていますが、失礼ばかりしていて、二度と彼に会えないままになったことは痛恨の極みです。
 私も40歳まで会社の連中とチームを作り、高槻市の大会に監督兼捕手で出場していました。その後体調を崩し今ではボールを握ることはありませんが、野球への思いは強く、少年時代に三角ベースで日が暮れるまで遊んだことが忘れられない野球少年の一人です。お二人のご冥福をお祈りするとともに、来世でもまた一緒に野球が出来るといいなあ、その時は甲子園球場がいいかなと思っています。
                    合掌。

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