それは薬学部がまだ昭和町にあったころのことです。入学まもなく(S.41, 4月)全学のオリエンテーションに続き薬学部のオリエンテーションが薬学部で開催されました。私は野球が大好きなので、大学では必ず野球をすると決めておりました。しかし、全学の野球部に入るか薬学部の野球部に入るか迷っておりました。オリエンテーション後、薬学部内の食堂で昼ご飯を食べていたところ、なつかしい関西弁が私の耳に入ってきたのです。大阪から長崎ヘ一人でやってきた私は、少しホームシックにかかっていたので、とてもなつかしくついその人に声をかけました。すると、「え−、あんた大阪なん、俺京都出身や、それでもうクラブ決めたんか。まだやったら野球部に入ってよ、午後から練習あるから見学においで」が三明さんとの最初の出会いでありました。
当然三明さんのペースで即日入部決定でありました。我々がお世話になったのは三明さんが4回生から院生の頃でありました。練習をつけてくれるのですが、そのコーチングは研究者の割に理論的でなく、かといって根性一本やりでもなく、どちらかというとブタもおだてりゃ木に登る的な指導でありました。そのせいか成績は別として、チームのまとまりは良かったように思います。マナーに関してもどちらかというと厳しくしつけるのではなく、自分自身が範を示し実践されていました。先輩に対しての礼は尽くされても、後輩の我々にはそれを強要されず、逆に厚い愛情を示して下さいました。それゆえに皆様からずっと変わらず、三明さんの愛称で呼ばれているのでしょう。
またこんなこともありました。今度は私が主将で先生が監督の時でした。部員が20名に近くなったときのことです(入学定員数が40から80名に増加のため)。これまでは部員数が10名を少し越える程度だったので、試合には全員出場できてたのですが、そうはいかなくなりました。そこで、私は学年無視の実力本位でレギュラメンバーを決定する方針を打ち出し、監督の了承も得ました。しかし、これは部内に大きな波紋を呼び、ぎくしゃくした空気を生んでしまいました。私はなす術もなかったのですが、先生はこの修復にものすごく努力され、また補欠メンバーに対する気遣いは人一倍繊細で細やかなものでした。このような繊細さや、他人のために惜しみない努力をされる先生の行動は野球部に止まらず、各方面において発揮されていたことは、容易に想像がつきます。お会いするたぴに「いそがしくて大変よ」がくちぐせでした。その内容を聞くといつも自分のことより、他人のお世話の話が圧倒的に多かったのです。このようなたぐいまれな人間好きの性格が過労につながったのではないでしょうか。私は先生に言いたい「なにをチョンボしてるのですか。許して上げるから早く帰っておいで」。
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