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渡辺投手と市川投手の思い出

 


昭和52 年卒業 大木 豊

 小学5年生から高校3年生まで柔道一筋でやってきて、高3の長崎県高体連個人重量級で準優勝した。大学生活に慣れて、アルバイトが決まったら柔道部に入ることに決めていた。高校の先輩からも誘われていた。が、薬学部野球部に入部した。3年生の尾上(現 板倉)さんから、家庭教師のアルバイトをすぐに世話してもらったからである。しかも相手は、一つ年下の女の子。礼節を重んじる柔道家として、野球部へのお誘いを断ることができなかった。
 当時まだ人気のあった「巨人の星」の登場人物に因んで、長薬の伴宙太として渡辺先生に紹介されたのが、三明先生との最初の出会いであった。  
ポジションは当然キャッチャー。男の部員数は九人ぎりぎりであったので、試合にはすぐ出してもらった。何しろ、柔道一筋できたわけだから、当時は野球の事は常識程度も知らなかった。もちろん、キャッチャーとして試合に出るようになったからルールは必死で勉強した。後になって、三明先生から「笹田(そのころの旧姓)、おまえ、ほんま野球知らんかったなー。」とあきれられた。ルールは何とかわかってきたが、捕球はなかなかうまくならず、パスボールが多かった。ところが、これだけはずいぶん後になって知ったことだが、パスボールとワイルドピッチがあるということ。捕球できないのは全て自分が悪いと思い込んでいたが、今思えばそうでもなっかたような気がする。元々捕球が下手なくせに投手の悪口を言うのは気が引けるが、ワイルドピッチも相当あったと思う。(投手をされた、先輩、同輩、後輩の皆さんごめんなさい)
 その点、三明先生の投球は良かった。フリーバッティングではよく投げてもらったが、コントロールが良く、素直な球で打撃練習にもってこいの投球だったと思う。キャッチャーとしては非常に楽だった。他の投手の時のように、「ストライクだけ打つとぞ。」とバッターにアドバイスする必要はなかった。
 市川先生の思い出としてすぐ思い出されるのは、なんと言ってもあの真っ赤なユニフォーム姿である。還暦の御祝いに大学病院の野球仲間から贈られたそうで、その姿でOB対現役の親睦試合にも何度も登板された。赤いユニフォームを着られる前から捕手を勤めさせていただいたが、さすが、高校野球経験者だけあって名投手であった。コントロールばっちり、変化球も良かった。私が受けた投手の中では、先輩、同輩、後輩には悪いけれども、なんと言っても最高の投手であった。
 市川先生には、県職員として薬務行政に携わっているときに非常にお世話になった。薬事審議会、薬種商試験委員会等の用事で教授室に訪ねていくときも、野球部の先輩と言うことで仕事がしやすかった。と、こちらで一方的に思っていた。市川先生は、誰とでも同じように接しておられたと思うが、初対面の人などはあの偉大な市川先生と仕事の話をしに行くことは、かなりプレッシャーがかかっていたようである。
 今年の一月に市川先生が、二月に三明先生が、相次いで亡くなられた。今頃、天国でお二人は、野球の話、薬学の話、お酒の話などをあの素敵な笑顔で話されているような気がする。ご冥福をお祈りします。   合掌

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