前へ

柏葉健児 目次 背番号10

次へ

無題

 


平成5, 院平成7 年卒業 森本 仁

 文中は呼び慣れた「三明さん」と書かせてもらっています。
 「四年生」・・・当時(平成4年)薬品合成化学教室には、古川先生、木下先生、三明さんの3人の教官がいました。自分の担当教官は三明さんに決定したのですが、初日から気合がはいっていたのか非常に話が長かったのと少し怖かったのを覚えています。
 「タバコ」・・・数年前から禁煙をしていたけど自分が合成に入った時はヘビースモーカーでした。「マイルドセブンセレクト」の灰色の箱がいつも机の上にありました。あと「ロッテグリーンガム」も必需品でした。
写真  「ビール」・・・酒のなかでも特にビール、特に「バドワイザー」が気に入っていたと思います。ご機嫌に酔っているかどうかは目の角度ですぐわかりました。あと話がさらに長くなりました。そういえば実験室の冷蔵庫は薬品とビールで満杯でした。
 「野球」・・・「阪神タイガース」ファンでした。タイガース樽酒をうれしそうに見せられた記憶があります。高校野球も好きでした。
 「薬学野球」・・・三明さんのノックは結構きつかったです。(練習が終わってくつろいでいるときにフラッときてすることが多かった)OBから現役までのまとめ役だったので何か会合があるときは嫌な顔せずに率先して働いてくれました。学内でも積極的に学生に声をかけてくれていました。
 「歌」・・・カラオケ大好きでした。一緒に飲みに行くと必ずマイクを離しませんでした。一度三明さんに「森本、踊れ」と言われ生まれて初めて女性と踊りました。(店のママさんと)三明さんの歌にあわせて踊るのはいいのだけれど何と歌が5番まであって何て長い歌を歌うのだと少し泣きそうでした。
写真  「合成」・・・三明さんは長年、抗生物質の全合成をメインに研究をしていて(他多数の薬の合成も研究、いくつか全合成にも成功している)自分も3年間一緒に実験してきました。納得のいくデータがとれるまで実験する三明さんだったので量も半端ではなく、厳しい時もありました。一度だけ実験方法だったかNMRの解析についてだったか激しい口論になったことがありました。結局どっちも譲らなかった記憶があります。在学中に全合成は成功しませんでしたが、何年かかっても三明さんが完成してくれると信じていたので非常に残念です。
 「学会」・・・何度か学会を一緒に行ったけど石川県の時は一番おもしろかったです。石川県の学会数週間前に全合成に成功した抗アレルギー剤(当時四年生の女の子による)が他の大学のポスターで発表されていた時はさすがに2人で呆然としました。(三明さんは俺達のほうの収率がいいとブツブツ言っていた)2人でガッカリはしたけど、その夜の海の見える露天風呂は最高のながめでした。よほど気に入ったのか三明さんが突然明日もう一泊しようと言ったときは本当にやるなと思いました。おかげで次の日の講義さぼっちゃいました。
 「卒業」・・・自分が卒業後は研究室を三階に移し、そこで精力的に実験をされていました。何回か遊びに行ったけど在学中と変わらず資料とデータにうもれながら実験している姿を覚えています。家が近いこともあって年に数回程度しか会わないようになり、いつでも会えるだろうと思っていたので卒業したらゆっくり飲みにいこうと言っていた約束を果たせなくなったのが悔やまれます。
写真  厳しい世間のなかハイレベルな薬剤師育成のため、より高度な専門知識を身につけさせようと大学は少しずつかわってきました。当然、勉強や研究の場であって遊ぶところではありません。でもただそれだけというのも何か物足りない感じがして今の大学は少しつまらなくなったような感じがします。学校のなかでも訪れる場所がだんだん減ってきて、同窓会や同窓会報でしか自分はOBなのだと確認ができないようになってきました。そう考えると三明さんはとてつもなく大きな存在だったと思います。

前へ

このページの初めへ

次へ