今年度事業計画の一つの旧小野島校舎跡地記念碑周辺の清掃の模様をお伝えします。
前日の15日はあいにくの雨で、天候が心配されましたが、朝から雨の方は問題なく、長崎を午前10時頃に出発した車中は日差しを浴び少々暑く感じるほどでした。前後しますが、薬学部の柏葉会館前に集合した伊豫屋偉夫会長(S41)、田崎和之先生(S22)、監査の木下敏夫先生(S35)、伊藤潔会計幹事(S59)、和田光弘編集幹事(H4)、岸川直哉庶務幹事(H10)と事務局の武次郁子氏の7名は2台の車に分乗して小野島へと向いました。国道57号線を左折するときに、めずらしく偶然にも島鉄の電車に遭遇してしばらく待たされたあと、干拓の里の方へ向って走るとすぐに見覚えのある景色となりました。
10時半過ぎに到着すると、お隣の諌早干拓の里で何かイベントが開催されていたようで駐車場が満車状態でしたが、運良く一番奥の、ちょうど記念碑の横に車を停めることができました。諌早在住の中村博副会長(S45)、高良真也幹事(S57)らがすでに清掃を始めようとしていましたが、お二人だけでなく今年は小野島会のメンバーが田崎先生を含めて6名も駆けつけてくれております。吉田研次先生(S37)も長崎組とほぼ同時に現地に到着してくれたところでした。
今回参加していただいた小野島会のメンバーは、田崎和之(S22)、松本康裕(S24)、峰唯信(S26)、立石正文(S26)、岸川良(S25)、西川恭夫(S26)の6名の先輩方です。西川先生は大分より、松本先生、岸川先生は福岡から駆けつけていただきました。ありがとうございました。
伊豫屋会長が宣伝して下さったお陰で、西日本新聞、長崎新聞、毎日新聞の記者が取材に来ていました。下村先生が学生時代を過ごされ、研究生活へ入る第1歩ともなった地で、集まった当時の同級生や先輩諸氏から小野島校舎のことや下村先生の学生時代の話しなどを熱心に尋ねているようでした。ちなみに、長崎新聞と西日本新聞の記事は確認できましたが、毎日新聞はわかりませんでした。
上の左の写真の手前左側のコンクリート部分が当時の校舎の正門とのことです。この日まで全く知りませんでした。右の写真は古川淳名誉教授からお預かりした貴重な当時の校舎の写真で、同様に手前左側に門があり、薬学専門部の文字を読むことができます。
小野島会の先輩のお話の中で、「この辺が正門だった」というお話が耳に入り、尋ねてみたところ、記念碑の写真の手前にあるコンクリートが当時の門の跡であることを知り、よく見てみると錆びた鉄の蝶番もありました。さらに驚いたことには、先の先、裏の裏まで心遣いが行き届いている武次さんがコピーしてこられた昔の写真には見事に当時の門が写っており、目の前のコンクリートが門であったことを初めて認識することができた日でありました。
清掃自体は、いつものように1時間ほどで終了し、残念ながら都合で昼食会を辞退された方たちを除いて諌早市内の鰻屋へと移動しました。有名な鰻に舌鼓を打ちながら、小野島会の先輩方から一人一人当時の校舎や薬専のこと、下村脩先生のお話などを伺い、和やかで楽しいひとときを過ごすことができました。大変貴重なお話も聞くことができたのですが、いざこの記事を書こうとしてみると、記憶があいまいで大変申し訳ありません。別の機会に是非、詳しくお聞きし直して同窓生の皆さまにもお伝えできればと思います。(08.11.18 伊藤潔)
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