小野島校舎跡記念碑について

長薬同窓会では、小野島校舎跡記念碑周辺の清掃を年間行事の一つとして組み入れ、その都度、参加者を募って行なっています。「小野島会」という会は、昭和22年から26年までの旧長崎薬専卒業者の会です。当時、薬専の校舎は、諌早の小野島の地にあったのです。長薬同窓会長も務められた、昭和22年卒の伊藤好古先生の書かれた「小野島校舎跡記念碑建立」の記事が同窓会報第28号に載っていますので、ここに掲載し、記念碑建立の経緯をご紹介します。

小野島校舎の写真

——–以下引用——-

小野島校舎跡記念碑建立

伊藤 好古(昭22)

 「小野島会」は,昭和22年から26年までの,旧長崎薬専卒業者の会である。

戦後の混乱を経て,世相も落ち着きを取り戻した昭和37年,関西で小野島会を開いたのが最初で,その後東京,福岡でも小野島会が生まれた。地元長崎では,昭和59年末,中島氏(S. 23)等の尽力によって,全国に呼びかけて小野島会を開き,70余名が集まった。

昭和20年8月9日,原爆によって潰滅した長崎医科大学附属薬学専門部は,学内で教職員学生37名を失い,その悲惨な最期は,忘れ得ない悲しい歴史である。

その後,昭和20年10月10日から,佐賀市上多布施町に仮校舎を得て,3教室と2棟の学生寮で再生の歩みを始めた。 以来,幾多の経緯をたどり,長崎復帰の第一歩として諌早市小野島の地に假校舎を置いた。 飛行場跡の広大な敷地に,巨大な格納庫のほか,講堂,教室,寮等があり,100余名の学生が,長崎復帰を果たした。 敗戦直後の,食料難を始め,貧窮の時代に青春の情熱と友情を絆として生き抜いた学生生活は,昭和26年3月まで続き,4月から再び浦上の地に,帰った。 今は,その頃の学生等も歳を重ねたが,青春の想い出は消えることもない。

昨年,長崎小野島会の席で記念碑を建てる案が出され,協議の末,建立に決し,地元に世話人を置いて募金を開始した。

一方,小野島の建立予定地が諌早スポーツ公園となり国有地であるために,古川氏(S. 25)が,長崎地方財務局,諌早市と交渉の結果,認可を得た。 募金は,全国の会員から179万円が寄せられた。 地元世話人の度々の会合によって設計,発注と進み,昭和63年6月に碑は完成をみた。同月18日,旧仮校舎正門跡付近に,我々の青春の証が姿を現わし,当日,全国から集まった52名が,校歌の流れるなかに除幕を行った。 この式には,聞きつけて来られた故高取治輔名誉教授夫人ナツ子様のお顔も見られた。碑を囲んで,校歌を歌う人々の目には,若い日々のことがよみがえり,涙が止めることなく流れた。

式後,諌早のうなぎ屋で,昔のビデオを見ながら杯を挙げ,旧交を温め再会を約して全国に去って行った。

この会は,年と共に,消えてゆく集まりではあるが,最後の一名でも在る限り,この碑を長崎大学薬学部の原点として,母校の発展と後輩諸君の栄光を祈り続けるのである。

(同窓会報 第28号より)