防空壕造りも空しく

 
 附属薬学専門部の歴史は古い。明治23年(1890)6月、第五高等中学校医学部に附設された薬学科に始まり、同27年、第五高等学校医学部薬学科、同34年、長崎医学専門学校薬学科を経て、大正12年(1923)4月、長崎医科大学附属薬学専門部と校名を改めてきた。 基礎キャンパスの北側に木造二階建校舎、実習室、薬草園(1,000坪)、温室などがあり、玄関の入口まで桜並木のトンネルが続いていた。 被爆時、在籍学生201名中、一年生92名は市内南部の工場で動員作業、二年生60名は熊本県水俣市にやはり動員中であった。 三年生49名は9月に繰り上げ卒業と決まり、6月に動員を解除された。しかし、戦局が加速度的に悪化したため急ぎ大型の防空壕完成にむけて土木作業を強行することになった。
 
 8月9日朝、壕掘り作業に集まった三年の学生は29名だった。そのほか、二年生9名、一年生5名が健康上の理由で学校に残留し図書整理などに従事していた。当日、江口虎三郎部長(東京帝大医学部薬学科卒)以下3名の教授は出張中で、在校の清木美徳教授(広島文理大卒)、杉浦孝教授(台北帝大理学部卒、33歳)が壕掘りを指導した。壕掘りは中でつるはしや鍬をふるって掘進する班と壕外で土を運ぶ班に分かれ、時間交代ですすめられた。暑熱の中とあって上半身裸体で作業する学生も多かった。杉浦教授は途中で新聞記者の来訪を受け、薬草園の案内に出掛けた。
 
 清木教授が壕内で最先頭に立って掘進を進めている時、まさに至近の上空で原爆は炸裂した。被害は壕の内外で天国と地獄の差を現出した。「やられた!」と外から駆けこんでくる学生は頭髪も眉毛も焼け落ち、全身の皮ふはヌルリと脱落して血がにじみ、真黒に焦げた顔からは誰なのか学友にも判じられなかったという。即死した者も多く、まさに一瞬にして地獄絵図が現出された。緑豊かに繁っていた樟の大木はすべてなぎ倒され、太陽は塵芥の彼方に黒い車輪のようにかかっていた。
 
 清木教授らは息のある十数名の瀕死の学生を壕内に横たえ、熱線のため生じた火災が迫ってくるのを消すため必死に戦った。ようやく火災が鎮まったのを見て、大学病院の応急医療班に救いを求めにいったが、清木教授は五尺の棒材を杖に学生に後を支えられながら、まるでゴーギャンの絵のように、黒い太陽のかかった焦土に落涙しつつ歩いた。再度の依頼で、夕刻になって永井助教授以下医師、看護婦が救護にかけつけた。これにより、医師、看護婦による応急の注射や包帯、薬品塗布などの処置を受けさせることが出来た。
 
 明けて10日、生存者はわずか数名になったが、朝6時頃「松本さーん」と呼びながら歩いて壕の方へ来る夫婦があった。松本登君の下宿の人で、買物かごに握り飯や果物、生なすび、きゅうり、じゃがいもを一杯に詰めて駆けつけてくれたのだ。松本君は生死の境にあり意識は混濁していたが、下宿の夫妻に気づいたのか笑顔を見せて感謝の手を握りつつ、午前十時半「お母さん、お母さん、万歳!」とかすかに叫んで息絶えた。
 
 壕内にいたため奇跡的に元気だった富田恒夫君は前日から必死に被爆学友の看護にあたってきたが、壕外被爆学生の最後の生存者になった岡本省三君は、死期の近いのを覚ると、「富田、どこにいる。もう眼がかすんで何も見えない。貴様の顔や姿形がかすかに見えるだけだ。親父や母に会って死にたい。母はきっと俺を探しに来てくれるはずだ。その時に、この時計を渡してくれ」。そのまま首が動かなくなった。21歳だった。15日、岡本君の母親は下関からたどりつき、形見の腕時計は悲しみに沈む母親に渡された。
 
 三年生29名中23人、二年生9名、一年生5名、計37名が死亡した。 杉浦教授は、薬草園の温室の窓を開き手を差し出したとたんに被爆、窓枠に手をはさまれたまま死亡した。薬草園のレンガ壁の下敷きになっていたため、レンガがテコでも動かず、手前の方から土を掻いて潜りこみやっと遺体の収容が出来た。 山下次郎教授(東京帝大医学部薬学科卒、30歳)は附属病院に入院中、病室で被爆、そのまま死亡した。自宅でも夫人、一歳の女児ともに死亡し一家は全滅した。
 
 

注) 記文書は小路敏彦著「長崎医科大学壊滅の日」(1995.11.15発行 中央公論事業出版)より、薬学専門部関係の項を抜粋したものです。上小路敏彦氏は1928年佐賀県生まれ、1955年長崎大学医学部卒業、1976年長崎大学教授、1994年退官、現在は長崎大学名誉教授のご経歴です。「防空壕造り」の内容については『長崎大学薬学部百年史』を参考にして書かれているようです。

 

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