昭和44年度卒業・平成14年度同窓会 (2002年)
2002.11.3 (沖縄 サンセット美浜)
今年は沖縄が本土に復帰して30年、戦争をしらない、ほとんどが戦後生まれの私達が長崎大学薬学部を昭和44年に卒業して、この地で同窓会を開くのも一つの節目のような気がする。南部戦線後のひめゆりの塔、平和公園、防空壕の後等々を訪れればあの戦争の非情さや残酷さなど厭がおうでも考えさせられる。二度と戦争を起こしてはならない、平和こそ全てという気になる。
沖縄は九州からでも1時間20分程の南国、やはり暖かい。同窓会の日、11月3日でも24―25度、この時の九州では10―14度で、早くも冬といった感じであった。この日、長崎の雲仙では、霧氷と紅葉が同時に観られてラッキーだと、笑みを浮かべている観光客をテレビで見た。
今回の幹事役は比嘉(旧島袋)さんで全てが彼女によって企画された。この時期は沖縄でも観光シーズン、皆早めの飛行機やホテルの予約で、早くから心は沖縄で、お互いの連絡も例年になく早くなったようだ。3日、4日と連休になっていたため、2日間、3日間とそれぞれ個人の都合や友人同志との打ち合わせで計画はばらばらになった。それでも約束の3日の1時の那覇空港での集合は遅れること無く、全員揃うことになった。空港で会った顔は例年見る顔で、それ程の新鮮さはないが、お互いの無事が顔をみれば分かる。もう感覚は家族である。簡単な挨拶で済んでしまう。それでも記念にと、空港の中、送り迎えの客が多い所で、場所を確保しながら18人堂々の記念撮影会であった。これもまた例年通り、ささやかな動きにもそれぞれの個性が出てくる。いつも前列にくる人、まん中にくる人、いつも後ろに位置する人、元気なのは常に女性、そんな同窓会の前触れでした。前回は全員の写真撮影に失敗、今回は50代後半に突入した歴史を刻むためにも成功しなくてはならない。10数年前の写真と比べれば全体がややワイドに成っている。何も最近流行りのワイド画面にした覚えは無い。それなりの年輪を刻んできた事に間違いは無い。今回の話題の一つにもなったのが老後の事だった。もう、やはり世間一般の定年に近い年令になってきている事が実感させられる同窓会でもあった。
今回沖縄と言う事で、観光が中心になり、お互いに語り合うことが少しだけ少なかったかなー、と思ったのは私1人だったろうか。その一方、何時もはテレビの気象予報で画面の下の方に晴れか、曇りかのマークに気が付く位でそれほど意識が無い。今回沖縄の歴史・文化に触れられた同窓会の意義は少なく無い。琉球舞踊を見ても、服装こそ違いはあるが、あの踊りの優雅さ、気品高さ王朝絵巻をみるようで楽しかった。三味線に合わせて歌われる沖縄民謡の数々、独特のリズムを持ちながらも私達の心に違和感なく、むしろ積極的に心が動く、一見中国に近い歴史と思いながらも、日本文化そのものという感じがした。これがアジア文化圏の特徴かとも思ったりした。また沖縄に残っている、現在では世界遺産の一つと成っている首里城、中城(ナカグスク)、それに座喜味城等を見ても、1400年代当時の日本山城には見られない正確な切り積み石垣の城郭に成っている。この正確さは当時の琉球国の技術の高さ、文化の豊かさを物語っているような気がする。日本や中国の歴史に翻弄されながらも独特の文化を築き上げていった沖縄、そこには歴史の重みがある。ソ―キソバ、ゴーヤチャンプル、これまで経験もしなかった色とりどりの魚、それにドラゴンフルーツにみられる南国の果物、これらを食べながら、それに泡盛を飲みながら、人生を語るのは何と楽しい事であったことか。この時こそ至福の時である。
3日の6時から始まった宴会の事は別の人が書くと思いますので、ひとりよがりの沖縄の感想はこれくらいにしておきます。
参加者は、原好子、内田民子、木下幸彦、中村和子、小坂妙子、比嘉節子、下野憲夫、高橋正彦、護山順子、富永義則、西村正邦、広本淳子、藤田立明、藤堂昭代、渡部セツ子、松村秀生、それに下野、藤田ご両人の娘さん二人。
富永 義則(昭和44年卒)