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グビロヶ丘



 医学部正門を通ると、真正面の一段高い石垣の上に、鉄筋2階連の建物(学生控室)がある。この建物の裏は、雑木林の続く小高い丘である。強い日差しを遮って薄暗くなった林の中を這うように、細い、くねった舗道が通っている。この坂道を3分ほど登ると、平担な丘の上に出る。

 この丘がグビロが丘である。その当時、附属専門都の薬草園附近からこの丘一帯にかけて虞美人草が咲き乱れている様をみて長崎医学専門学校の精神神経科の初代教授石田昇氏が名付けたといわれている。かつて、この丘には小島養生所時代の建物を移築して建てられた睦会館があつたが、原爆によって跡形もなく全焼した。この日、昭和20年8月9日午前11時2分。アメリカ空軍の誇る超大型戦略爆眼機B29の投下した一発の原子爆弾は、長崎市街の大半を一瞬にして死の街と化したが、なかでも投下中心地に近い浦上地区一帯は廃墟に近い惨状だった。同時に長崎医科大学も壌減的打撃を受け、すべての施設・設備は焼失しただけでなく、角尾学長をはじめ850名をこえる教職員.学生の尊い人命が失われた。かろうじて即死をまぬがれた頻死の重傷者のうち、どうにか体の動かせる者は、命がけでこのグビロが丘に逃げのびてきたが、やがてその人達も必死に水を求め、恋しい父母や友の名を呼びつつ、一人、また一人と死んでいった。

 昭和20年10月~11月にかけて、当時、復員直後の医専生、浜里欣一郎氏(開業医)らの手によって、数多くの学友たちの死骸の収集処理が行なわれ、このグビロが丘に手厚く埋葬された。その時の関係者たちが、「友ここに眠る」と砂岩に手で刻んで、これを碑として埋葬地に建てたが、昭和42年頃、心ない人たちによって、いずこかへ持ち去られた。

 今ある原爆被災者慰霊碑は、1955年に、もと講堂の石柱を使い、新しく台座を造って、最初に建てられていた慰霊碑より、やや左手に建てられたものである。碑の正面には古屋野元学長の筆による「慰霊碑」の大文字が雄渾に刻まれている。また右側には、有冨星葉(本名、有冨重国。大正13年長崎医専卒。開業医、64才没)の詠んだ「おもうことみな遥かなりこの丘の裾のべにしてミサ乃鐘鳴る」の短歌が刻まれており、左面には「西暦一九四五年八月九日十一時五分(正確には二分)八百五十余名のわが師わが友平和の先駆者としてこの丘に散りたまひぬ」1947年10月浦上復帰の日、長崎医科大学職員学生一同。が刻まれている。

 また、台座の裏側には永井隆博士の「傷つける友をさがして火の中へ飛び入りしまま帰らざりけり」の句が痛ましく胸を打つ。高さ5メートル程の慰霊碑の右脇に寄り添うように鎮座しているのが水塚(慰霊の水碑)である。懸命に1杯の水を求めながら、遂に得られずして死んで行ったあわれな被爆者の為に建てられたものだが、御影石椀になみなみとたたえられた水も今となってはむなしい。

 今年も間もなく38回目の原爆記念日を迎えるが、私達が体験した当時の凄惨な地獄絵図の記憶は年毎に風化しているのにひきかえて、グビロヶ丘は今なお原爆への深い恨みを秘めたまま、今日もまた、不気味に静まり返っている。

医学部学生係長 江野脇勝巳

注)本資料は1983.7.7付長崎大学医学部新聞の由緒シリーズ(6)より転記しました。