忘れ得ぬ日

 

(『忘れな草』調来助編第3集より)
昭和20年卒 冨田恒夫(当時、付属薬専三年生)

 
 
 薬学部の大防空壕はすでに半年がかりで、粒々として築かれていたのである。校庭に隣接した射撃場の溝から、さらに東南の丘をめがけてえぐり抜かれ、当時、奥行10m、高さ1.5mの円形壕は、入口を二つにして、丘の中で会合する相当に頑強なものになっていた。そして講義終了後、昼休み、研究の余閑に、だれかしらスコツプ、くわ、つるはしをにぎっては、岩にいどんでいた。
 
 9日は、ちょうど11時を針が指したころ、清木先生(教授)は突然、「あの音!! 静かに」と叫んだ。かすかなB29の金属音が響く。「だれか壕の外へ出て、みんなに木陰でしばらく休むようにいってきなさい」といわれ、池田が飛び出してすぐもどってきた。私は田中・奈良崎が早く帰ればいいがと思い、みんな声も出さずに耳をそばだてている時だった。
 

 急激な雷鳴と地鳴りとともに、猛烈な激震が起こって、目もつぶれるような閃光が頭の中をかけめぐり、ズズズと地底に引き込まれ、私は地上にたたきつけられた。先生も学生もなかつた。生物も無生物もなかつた。先生の体にドッとぶちあたり、一間ほど飛ばされた。耳がガーンとしてなにも聞こえず、呼吸は苦しく、数十秒の間なにも覚えず、顔は息苦しさにほてってきた。 写真は、西彼杵郡香焼島から見た原子雲(「目で見る長崎市の100年」より)
 
 
「壕の入口にB29が落ちたらしい。入口がふさがつたぞ。おれたちは生き埋めに会つたぞ」と、目前の窒息死を感じとった。先生はまっ先に気づかれたのか、「おい大丈夫か、傷はないか、くわをとって入口を掘り出さねばならん。ぐずぐずしては生き埋めだ」と叫ぶ。池田、柏の両名がまっ先に飛び出す。私はそろそろ両手を頭から離した。するとどこからか、冷たい空気が流れてくるではないか。
 
 「先生!われわれは助かりました。どこかに出口が開いているに違いありません」正に歓声だ。入口とおぼしき方向をすかしてみると、だんだんと明るくなって、ポツカリ入口は開いている「ああ、助かった!」すると外から池田の声、「先生!外は大変です。みんなものは見わけがつかない。建物もなにもありません。早く、早く!」「なにツ、なにもないだと!」先生は飛び出した。私も出ようとした時、入口から真っ黒の人影が飛び込んできた「やられた!おれは残念だッ!」私は両手で抱きあげ、顔を見た時ぞっとした。これが人間、否、動物の顔だろうか。全身の皮膚はぬるりとして血がにじみ、頭髪も眉毛も焼け落ち、顔面は焼けただれ、正しく埴輪の形相で、この世の姿とどうしていえよう。
 
 「君はだれか」私は失礼とは思つたが、聞かざるを得なかった。「松本登だ」ああ、かの美青年を、今にしてだれが想像し得よう。私は肩につかまらせて、壕の奥へ横たえてやった。
 
 「おれは残念じや。B29一機から三個の色のついた落下傘を見た時、ちょっと普通の落下傘とようすが違うがと思い、もしか広島に落ちたものと同じじゃないかと、とっさに想像して入口まで逃げたんじゃが、もう一度見上げた時アツという間にたたきつけられた。痛い。なんとかしてくれ」意識ははっきりしていたが興奮は非常なものだった。
 
 その間に清木先生や椎名が、大やけどの友を壕へ運ぶ。私は壕の中へ順々に導いては横にさせてやったが一人一人、名前を聞かねば見さかいがつかない状態であった。
 
 「君はだれな」「池田だ。冨田ッ、わいはぜんぜんけがしとらんね。おいの姿はどげんな。まぶたが焼けついて、眼がよう開かんが………」ああ、なんということか。無傷の自分を見なおした時、私はみなに相すまぬと思った。一応だましてはみたが、なんの薬にもならない。僚友はみんな、両手を前にあげて、手首からただれた薄皮をダラリとさげたまま、やけどの苦痛を耐えしのんでいた。私の顔を見上げている姿に接しては、じっとしておれず、先生や椎名等とみんなを励まして回るだけだった。
 
 荒木は真正面からペニスをやられ、その苦悩の姿は見るに耐えない。宮本はすでに食道を犯されいるごとく、「富田、おれの下宿に行って征露丸をとってきてくれ」と泣き叫ぶ。約12~3人の友を壕内に引き入れた。この間にも壕の外では、11人の僚友が池田、椎名の後をたどって、穴弘法の山はださして登って行ったというが、全身の苦痛と熱線傷のために、ことごとく中途で悲惨な最後を遂げたと思われる。
 
 爆発後15分か20分経ってであろうか、一陣の風が生温く吹き始めた。風は風を呼び、見る見る壕の外は火炎のるつぼとなった。一抱えもある材木が風に乗って飛来し、烈風と劫火が刻々と壕の周囲に近ずいていた。
 
 椎名は、「冨田君、おれたちはこのままいては、蒸し焼きになるだけだ。逃げよう、山へ」と避難をすすめてくれたが私はこの十数人の友を横に見て、どうしても逃げ出せなかつた。「おれの家はすでにないだろうし、孤独になったからここで死んでもいい」と、壕の奥で座ってしまった。彼は一瞬ためらつたが、「ではお元気で」の一語とともに、固く手を握り合って、煙の中へ消えていった。
 
 彼が飛び出すと同時に、壕はまったく火炎に包まれたのである。一丈もあろうと思われる大木が空中を飛び、三畳もあろうと思われるトタン板が、紙片のごとく舞い落ちた。くすぶった木片が壕の入口を埋めて行き、熱風がゴーツと中へ巻き込んでくる。壕中はまったくの煙になって、一尺先もわからなくなった。私はふんどしをとって泥水に浸ませ、口をおおう。傷つける友の泣き叫び、煙にむせぶ姿を見ても、私と先生の二人では、なんの施しができようか。入口に埋る木材を壕の外へ投げ上げていた時、清木先生の背に焼けた大木が落ちて、一瞬先生は失神された。
 
 目を転ずると、田中は壕の入口ですでに絶命していた。彼は野球の選手だったが、手にしっかと石を握っていた。恐らく数秒の差で、壕にもどるのが遅かったのだと考えられる。村山は壕の入口でうつ伏せになり、地下水を口と鼻から吸っていたが、すでに意識はなかった。米田と江島の両巨人は、壕の一番奥の椅子に寝かせていたが、苦しいともなんともいわなかった。ただ平穏な顔に苦痛を耐えているのが、かわいそうでならなかった。
 
 私は被爆後二時間もしてから初めて外の異変を見たのだった。異常な恐ろしさを見たのである。山里、城山、松山の一望の廃虚のかなたに、稲佐の山々は焦げていた。壕を包んでいた美しい森には、一本の木陰もなかった。径一尺もある大木の森だったが、ことごとく地上二尺の根本からなぎ倒され燃えつくしていた。太陽は舞い上ったごみのかなたに、黒い車輪のごとくかかっていた。ゴーギャンの絵のようだった。
 
 清木先生は焼け残った五尺の棒材をつえにして、ただ落涙されるのみである。私はうしろから先生を押して歩く。土は焼けてじっととまっておれないのである。二人ともはだしだったので、ガラス、くぎにつまづくこと限りない。
 
 生化学の図書館が猛烈に火を噴き出していた。私の父が粒々として収めた数々の図書も、一冊一冊燃えては、ひらひらと舞い散っていた。火炎の中に、学部の各教室も次から次へと落ちていった。生化学の横をはい上がり、本部へおりて行った。本部の横には、ゆがんだ鉄カブトや事務員の白靴が散乱し、当時の惨状を物語っていた。ただ一人の生存者もなかった。もちろん本部の防空壕には、御真影も入っていなかった。私たち二人は病院を見おろして、第一、第二、第三病棟が火炎に包まれ、構内が瓦礫の山であるのを見た時、救援の望みを失ってしまった。そのころの先生の姿は、ゆがんだ鉄カブトをかぶり、一方の足には半焼けの地下たび、他方には底だけのズック靴をつっかけておられた。私は丘の上のいも畑で、ちぎれたゲートルと片方の地下たびを拾った。
 
 「冨田君、これではとても病院の者は助かっていないよ。困ったね。だれに救援を頼むべきかな」先生の頭には壕に残してきた学生の顔のみが去らぬらしい。その時、土手の上から全裸の四十男がおりてきた。「ああ、もしもし、大学病院の医者や看護婦さんを見ませんでしたか」と先生は問われた。「あっ、病院の人でしたら、この畑を三つ越した向うの山腹に、赤十字の旗を立てて避難していますよ」「ああ、よかった。どうもありがとう」
 
 私たちは助かった。急いで土手の上からトボトボと、山はだを穴弘法を左にして登って行った。いも畑の中腹にきて、私は足がすくんでしまった。幾千人という全裸の男女が、身もだえ、子供をかばい、すでにこと切れた乳飲み子とも知らずに、無数のガラスの刺さった乳房から乳を飲ませている母親。親を、友を、呼び続ける狂乱の姿、まことにこの世のものとも思えなかった。
 
 やっと赤十字がはっきり見えた。旗の下は黒山の人の群だった。よく見ると、血染めの赤十字である。頭を相当に傷つけられた学生が一人、たけだけしく旗を保持していた。教授連の横たわっている中に、学長を見出し、清木先生は薬学部の報告をされた。学長は顔面蒼白、頭から血が流れていたが、静かな姿だった。私にも「御苦労さん。よく学生たちの面倒を頼む」といわれた。
 
 次で私たちはレントゲン科の永井グループを見出した。さすがにこの一団は永井先生を囲んで、次々と出される指令に走り回っていた。「永井さん」「おお、清木先生ですか。あなたも無事でなにかでしたなあ」固い握手がかわされた。「いや、薬専の学生を壕に残している。私はどうでもいい。だれか学生たちを助けてくださらんか」手を合わせて哀願された。しかし見渡すところ、元気な教授も、助教授もいなかった。
 
 私は疲労のため、草むらにぶっ倒れた。うつらうつらしていると、「冨田君、眠っている時じゃない。すぐもどろう。途中で山水を捜すんだ」私ははっとして飛び起きた。帰りは水だけを捜して歩くが、どこにもない。やっと見つけた谷間の水も、幾百という死者の群で埋められていた。
 
 山はだの中途まできた時、大学事務官の筒井氏に会った。一升びんに大切な水を詰めて、突っ立っていた。清木先生は事情を話され、氏の好意によって、早速いただくことができたのである。私どもは、これで級友に少しでもつぐないができると感謝しながら、あせる心で壕に飛び帰った。
 
 壕の中は号泣、怒号の声。しかしすでに呼吸絶えた友もあるらしく、声が少なかった。入口で死んでいた田中の口から順々に、わずかの水を13人の友の口ヘ注いでやった。この愛すべき、正に息を引きとらんとする友への最後の手向けに、ささやかな奉仕だった。それでも水を口に含んで、まったく満足げに再び横人なる友の笑顔ではあった。
 
 さらに多量の水を飲ませてやれたらと、空虚な私の頭は、ただそれだけしか考えなかった。
 
 

注) 本文は長崎市役所にて編纂された長崎原爆戦災誌第2巻地域編(昭和54年3月31日発行)より8月4日に語り部の22年卒田崎和之先生が資料として提供され、慰霊碑清掃後、学生達を前に朗読されたものですが、今般、冨田恒夫先生(武庫川女子大学名誉教授)のご了解を頂き、使用させていただいています。 尚、本文は長崎大学薬学部百年史の第6章「原子爆弾による被災」の中の『忘れ得ぬ日』(冨田恒夫)より一部を抜粋したものであり、百年史をお持ちの方はP.93~104をご参照ください。